ジュール・ルナール
ルナール
Renard, Jules
1864年2月22日 – 1910年5月22日 (46歳没)
ジュール・ルナールの人物情報
フランスの作家である。マイエンヌ県に生まれ、2歳のときから父の故郷ニエーヴル県のシトリー=レ=ミーヌで育った。少年時代は母に愛されない日々だったといわれ、その記憶がのちの『にんじん』(1894年)の素材になった。1889年には文芸誌「メルキュール・ド・フランス」の創刊に加わる。1900年には『にんじん』を自ら戯曲にして大成功を収めた。動物や虫を短い言葉でとらえた『博物誌』でも知られる。1904年からは、かつて父も務めたシトリーの村長になった。1907年にアカデミー・ゴンクール会員。23歳から書き続けた『日記』は死後に刊行され、ベル・エポックの文壇を伝える記録として評価が高い。
同時代の人物
1864年生まれの同い年に、画家のトゥールーズ=ロートレック(DB名「アンリ・トゥールーズ・ロートレック」)がいる。ルナールより9か月遅い11月の生まれで、のちに『博物誌』の挿絵を描いた(エピソード参照)。同じ年には作曲家のリヒャルト・シュトラウス、彫刻家のカミーユ・クローデル、怪盗ルパンの生みの親モーリス・ルブランも生まれている。
日本では二葉亭四迷が同い年である。飾らない言葉で書くことを追い求めた点は二人に共通する。二葉亭は1909年5月、ルナールより1年早く45歳で世を去った。
ルナールが亡くなった1910年には、4月にマーク・トウェイン、5月27日にコッホ(DB名「ロベルト・コッホ」)、6月にオー・ヘンリーが相次いで亡くなっている。
年齢で見る生涯
日記は23歳の1887年に始まり、最後の記述は1910年4月6日、亡くなる1か月半前である。病床の夜を書いたその一文は「にんじんだったころのように」という言葉で終わっている。
人物のつながり
エピソード
ロートレックのアトリエで目のやり場に困る(30歳・1894年)
1894年12月8日、ルナールはトリスタン・ベルナールに連れられて、ロートレックのアトリエを訪ねた。土砂降りの通りから蒸し暑い部屋に入ると、シャツ姿に粉屋の帽子をかぶった小柄な画家が戸を開けた。奥のソファには裸のモデルが2人。ベルナールが平然と「こんにちは、お嬢さんがた」と手を差し出すそばで、ルナールはまともに顔も上げられず、帽子と外套と、しずくの垂れる傘の置き場を探していた。日記には「彼の絵が良いのかはわからないが、珍しいものを愛する芸術家だ」とある。翌年2月には「会うたびに大きくなり、しまいには平均より少し低いくらいになる」と書いている。
「どんな気がする?」「何も」(42歳・1906〜07年)
1906年11月19日の日記によると、友人のタデ・ナタンソンがこう告げた。「ある音楽家が君の『博物誌』に曲をつけたがっている。ドビュッシー(DB名「クロード・アシル・ドビュッシー」)すらもう古いと思っている前衛だ。どんな気がする?」。ルナールの答えは「何も」だった。曲を聴かせてもらいたくないかと聞かれても「いや、結構」。翌1907年1月12日、初演の当日にはラヴェル本人が訪ねてきて、今夜ぜひ聴きに来てほしいと頼んだ。何を付け加えたのかと問うルナールに、31歳の作曲家は「付け加えるのではなく、解釈するのです」と答えた。
「人生でいちばん美しい日」(40〜41歳・1904〜05年)
1904年5月15日、ルナールは村長に選ばれた。3日後の日記には、母の言葉が書き留められている。「わたしの人生でいちばん美しい日。1904年5月15日、息子がシトリーの村長に選ばれた日」。息子に冷たかったといわれる母である。村長ルナールは学用品の無償化を進めるなど、学校に力を入れた。翌1905年6月の初等教育修了証の試験では、視学官が書き取りの2題をどちらも『博物誌』から選んでいて、本人が驚いている。
出典・参考資料