ジャン・シメオン・シャルダン
シャルダン
Chardin, Jean-Siméon
1699年11月2日 – 1779年12月6日 (80歳没)
ジャン・シメオン・シャルダンの人物情報
18世紀フランスの画家。パリで、ビリヤード台を作る指物師の子に生まれた。1728年、静物画の「赤エイ」などで王立絵画彫刻アカデミーに入り、台所の器や果物、家事をする女性や遊ぶ子どもといった身近な題材を、静かで厚みのある筆づかいで描いた。1755年からアカデミーの会計係を務め、サロン(官展)の展示も長く取り仕切った。批評家ディドロは彼を「魔術師」と呼んで絶賛している。晩年は体を悪くして油彩から離れ、パステルで眼鏡姿の自画像などを残した。
同時代の人物
シャルダンより2歳上には、イギリスのウィリアム・ホガースがいる。ともに市井の人々を描いたが、ホガースは風刺で笑わせ、シャルダンは静けさで見せた。4歳下のフランソワ・ブーシェは華やかなロココの神話画で人気を集め、1765年に首席宮廷画家となった。シャルダンが21歳のときには、ロココの先駆者ジャン・ワトーが36歳で亡くなっている。
日本では、国学者の賀茂真淵が2歳上である。パリでは5歳上のヴォルテールが、シャルダンより1年半早い1778年に世を去った。シャルダンが亡くなったとき、フラゴナールは47歳、ジャック・ルイ・ダヴィドは31歳だった。
年齢で見る生涯
50代半ばから約20年、画業のかたわらアカデミーの金庫番と展示の裏方を務めた。パステルへの転向について、本人は「持病のために油彩を続けられなくなった」と書いている。油彩の鉛白で体を壊し目を悪くしたとみる説もあるが、推測の域を出ない。
人物のつながり
エピソード
豆の投票で、その日のうちに会員に(28歳・1728年)
1728年9月25日の土曜日、シャルダンは動物と果物の絵を何点も携えてアカデミーの会合に臨んだ。議事録によれば、会員たちは豆を使っていつもの投票をし、準会員としての承認と正会員としての受け入れを同時に決めた。残す作品として選ばれたのは「食器棚」と、議事録が「台所」と書いた一枚で、これが今日の「赤エイ」である。入会金も100リーヴルに減らされた。ただし、この日は風俗画家のド・バールも同じ扱いで迎えられており、「一日入会」はシャルダン一人の特例ではなかった。
「いたずら者のシャルダン」の展示術(61〜65歳・1761〜65年)
展示係は、どの絵をどこに掛けるかを決める強い立場だった。1761年9月、画家ウードリーが審査への不満を、シャルダンとアカデミーを侮辱する言葉で書き送ると、アカデミーは彼の出席を禁じ、サロンから作品2点を外させた。1765年のサロンでは、シャルの縦約4m・横約6mの大作の横に、ヴェルネの絵2点と自作5点を同じ高さに並べた。ディドロは「いたずら者のシャルダン」と呼び、同業者にこんな仕打ちはいけないと冗談めかして叱った。一方で、出来の悪い風景画はそっと隅に回しており、ディドロは「それはほめよう」と書いている。
「みなさん、どうかお手柔らかに」(65歳前後・1765年頃)
ディドロは1765年のサロン評の冒頭で、会場でシャルダンに言われた言葉を書き留めた。「みなさん、どうかお手柔らかに。ここでいちばん下手な絵を探してごらんなさい。その程度にも描けずに、絶望して筆をかみ砕いた者が二千人はいるのです」。シャルダンは、7〜8歳から何年も目や鼻の素描を繰り返しても、大半は画家の道を諦めると語った。わが息子のように難しさを早く知りすぎた者は何も描けない、とも言い、「お手柔らかに、お手柔らかに」と繰り返して去っていった。辛口の批評家に、現場の苦労を伝えたのである。
出典・参考資料