クリストファ・イシャウッド
イシャウッド
Isherwood, Christopher William
1904年8月26日 – 1986年1月4日 (81歳没)
クリストファ・イシャウッドの人物情報
イギリス生まれの作家。ケンブリッジ大学を学位を取らずに去り、1929年から33年までベルリンで暮らした。その体験から書いた『さらばベルリン』(1939年)は、戯曲『私はカメラ』を経てミュージカル『キャバレー』になった。詩人オーデンとは戯曲を共作し、1938年には日中戦争下の中国を一緒に旅した。1939年にアメリカへ移住し、ハリウッドで脚本を書きながらインド人僧プラバヴァーナンダに師事して、1946年に帰化した。小説『シングル・マン』、回想記『クリストファーとその仲間』でも知られる。1986年、81歳で死去。
同時代の人物
イシャウッドの6日後、1904年9月1日に幸田文が生まれた。幸田は父・露伴を追慕する文章で作家になり、イシャウッドは第一次世界大戦で戦死した父と母の伝記『キャスリーンとフランク』(1971年)を書いた。同い年の二人は、ともに親を書いた作家である。
5歳上のケストナー(DB名エーリッヒ・ケストナー)は、イシャウッドがいたころのベルリンを小説『ファービアン』(1931年)に描いた。4歳上のヘミングウェイ(DB名アーネスト・ヘミングウェイ)は、イシャウッドの3年後の1941年に、日中戦争下の中国を取材している。
年齢で見る生涯
『さらばベルリン』のもとになったのは20代後半の4年たらずの日々だったが、それがミュージカルとして世界に広まったのは60代になってからである。
人物のつながり
エピソード
答案で「退学」を勝ち取る(20歳・1925年)
ケンブリッジで歴史を学んでいたイシャウッドは、大学をやめるため、卒業試験にわざと落ちることにした。自伝的作品『ライオンと影』によれば、試験前にノートを焼き、教科書1冊はケム川に投げ込んだ。1925年6月の試験では、散文に見せかけて韻を踏んだ答えなどを書き、最後の答案は「天井から下がっている汚れた布は何のためにあるのか」という問いで締めた。1週間後に呼び出された彼に、指導教員は「金の問題か、女性か」と尋ねた。答えは「いいえ」だけで、結局、自分から籍を抜いて大学を去った。
エリカ・マンの求婚を友人に回す(30歳・1935年)
1935年、ナチスにドイツ国籍を奪われそうになっていたトーマス・マンの娘エリカは、イギリスのパスポートを得るため、イシャウッドに結婚を申し込んだ。イシャウッドは断ったが、オーデンに頼んでみると約束する。オーデン研究者メンデルソンによれば、オーデンの返事は「DELIGHTED(喜んで)」の電報だった。二人は6月に結婚し、一緒に暮らすことはなかったが、エリカが亡くなるまで夫婦のままだった。翌年には、エリカの恋人の女優テレーゼ・ギーゼも、オーデンの紹介で作家と結婚してドイツを出ている。
ハリウッドの僧院で皿を洗う(38〜40歳・1943〜45年頃)
1939年夏、イシャウッドはインド人僧スワミ・プラバヴァーナンダに会った。本人の回想によれば、同性愛者だと打ち明けても師が「嫌悪の影も見せなかった」ことが、弟子になる決め手だった。1943年2月6日、ハリウッドのヴェーダーンタ協会の僧院に修行僧の見習いとして住み込む。皿洗い、庭仕事、礼拝の儀式をこなしながら、師の訳した『バガヴァッド・ギーター』の英文を磨き、1944年に出版した。2年ほどで僧院を出たが、1949年の日記には、師がまだ自分の部屋を残してくれていると書いている。
出典・参考資料