シモン・ボリバル
シモン・ボリバル
Simón Bolívar
1783年7月24日 – 1830年12月17日 (47歳没)
シモン・ボリバルの人物情報
南米の独立運動の指導者で、「解放者(エル・リベルタドール)」と呼ばれる。1783年、ベネズエラのカラカスで大農園主の家に生まれた。1810年に始まった独立運動に加わり、敗北と亡命を繰り返しながら戦い続ける。1819年のボヤカの戦いでヌエバ・グラナダ(いまのコロンビア)を解放し、大コロンビア共和国の大統領となった。さらにエクアドル、ペルーへ軍を進め、1825年には彼の名にちなむボリビアが生まれた。しかし大コロンビアは内紛で分裂に向かい、1830年に辞任。同年12月、コロンビアのサンタ・マルタ近郊で死去した。
同時代の人物
1783年生まれの同い年には、フランスの作家スタンダールと、アメリカの作家ワシントン・アーヴィングがいる。スタンダールとは、16歳の1799年に故郷を出て都へ向かったこと、ナポレオンに惹かれたことが共通する。
日本では、『日本外史』の頼山陽が3歳上である。山陽が同書を松平定信に献じた1827年、ボリバルは分裂しかけた大コロンビアの立て直しに追われていた。1788年生まれの詩人バイロンは、1822年ごろ造らせたヨットに「ボリバル」と名づけている。
年齢で見る生涯
5か国の独立の大半は、36〜42歳の6年ほどに集中している。その一方で、両親を2歳と8歳で、妻を19歳で亡くしている。
人物のつながり
エピソード
手を縛られたまま、オリノコ川で泳ぎ比べ(30代半ば・1817〜19年頃)
1828年5月、側近ペルー・デ・ラクロワにボリバルが語った若いころの「狂気の沙汰」である。オリノコ川で幕僚たちと水浴びをしていたとき、泳ぎ自慢の書記マルテルが、ボリバルより自分のほうがうまいと言い出した。むっとしたボリバルは、約150m先に停泊する砲艦を指して「手を縛られていても先に着いてみせる」と言い返す。皆が止めるのも聞かず、ズボン吊りで両手を後ろ手に縛らせて飛び込み、苦労して泳ぎ着いた。ただし先に着いたのはマルテルである。本人はこれを「常に前へ、決して後ろへは退かない」性分の証しとして語っている。
ワルツを踊っては、命令を口述しに戻る(44歳の回想・1828年)
1828年5月2日の夜、舞踏会を欠席したボリバルはハンモックの上でラクロワに打ち明けた。かつては大の踊り好きで、いい相手がいれば何時間も踊り続けたという。好みはワルツ。遠征中も司令部を置いた町ではほぼ毎晩舞踏会があり、1曲踊っては命令を口述しに行き、また踊りに戻った。そのほうが考えが冴え、文章も雄弁になったらしい。「一人で静かでないと考えられない人もいるが、私は人混みと騒ぎと弾丸の中で考えた」と語り、手紙を何通も同時に口述できたとも付け加えている。
ワシントンの遺髪を受け取る(42歳・1826年)
ラファイエットはワシントンの遺族から託された品を、手紙を添えてボリバルに送った。肖像のミニアチュール、遺髪、ワシントンが妻に宛てた手紙、ウィリアムズバーグ市が贈ったメダルである。1826年5月25日、リマでボリバルはワシントンの養孫カスティスに礼状を書いた。「今日、この計り知れない贈り物にこの手で触れました。私はこれほどの栄光に値するでしょうか。いいえ。それでも、喜びと感謝をもってお受けします」。
出典・参考資料