チェ・ゲバラ
チェ・ゲバラ(別名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)
Che Guevara
1928年6月14日 – 1967年10月9日 (39歳没)
チェ・ゲバラの人物情報
アルゼンチン生まれの革命家で、医師でもあった。本名はエルネスト・ゲバラ。「チェ」は、アルゼンチン人がよく使う呼びかけの言葉から付いたあだ名。医学生時代に南米を旅して貧困を目にし、1955年にメキシコでフィデル・カストロと出会う。キューバでゲリラ戦を指揮し、1959年の革命を成功させた。革命後は国立銀行総裁や工業相を務めた。一方、ゲリラ戦中には内通者を自ら射殺している。革命直後にはラ・カバーニャ要塞の司令官として革命裁判の上訴を審理し、在任中、同要塞だけで少なくとも55人が銃殺された。1965年にキューバを去りコンゴ、ボリビアでゲリラ戦を試みたが、1967年にボリビア軍に捕らえられ、処刑された。
同時代の人物
1928年生まれの同い年には、手塚治虫、アンディー・ウォーホル、ベルナール・ビュフェがいる。手塚とゲバラは、ともに医学を学んで1950年代の初めに医師の資格を取った。そのあと一方は漫画へ、もう一方は革命へと進んでいる。ウォーホルは、有名人の顔を大量に刷るポップアートで知られる。ゲバラの顔も、没後にTシャツやポスターで世界中に複製され、ポップアートのような存在になった。
アンネ・フランクは1929年6月12日生まれで、ゲバラのほぼ1年後に生まれている。
ゲバラが亡くなった1967年には、ほかにも次の人々が世を去っている。
年齢で見る生涯
革命の勝利から国連での演説までは6年しかない。30代のほとんどを革命と戦争に費やした。39歳の誕生日には、陣中日記に「ゲリラとしての将来を考えさせられる年齢が、容赦なく近づいてくる。いまのところは『無傷』だ」と書いた。その4か月後に処刑されている。
人物のつながり
エピソード
ラグビー記者「チャン・チョ」(22〜23歳・1951年)
ゲバラは重い喘息を抱えながら、14歳から9年余りラグビーを続けた。最後のシーズンとなった1951年には、弟や仲間と週刊のラグビー誌『タックル』を創刊している。記者は全員が筆名を使い、ゲバラは「チャン・チョ」と名乗った。友人が付けたあだ名「チャンチョ(豚)」を崩したもので、身なりに構わない彼へのからかいだった。本人は面白がり、体面を気にする父親が嫌がるのも楽しんでいたという。創刊号では、3部リーグで優勝したクラブを「個人プレーに走りがち」と手厳しく分析した。雑誌は資金不足のため、11号で終わった。
「歯抜き屋フェルナンド」(39歳・1967年)
ボリビアでのゲバラは「フェルナンド」などの偽名を使い、正体を隠して戦っていた。1967年6月、部隊が山あいの小さな集落に入ると、彼は村人の歯を2日がかりで次々に抜いた。21日の日記には「盛大な抜歯の2日間で『歯抜き屋フェルナンド』の名を轟かせ、診療所を閉めた」とあり、この日は「この戦争で初めて」ラバに乗った。月末、ボリビア軍の司令官が、ゲバラが国内にいると公式に発表する。日記には「そのうち『歯抜き屋フェルナンド』ではいられなくなる」とある。捕らえられたのは、それから3か月余り後である。
広島で「怒らないのか」と問う(31歳・1959年)
1959年7月の来日の目的は砂糖の売り込みだったが、日本の新聞はほとんど報じず、池田勇人通産相との交渉も不調に終わった。大阪で広島が遠くないと知ったゲバラは、予定を変えて随員2人と広島へ向かう。原爆慰霊碑に献花して資料館を見学すると、口数の少なかった彼が、通訳の県職員に英語で「アメリカにこれほどの目に遭わされて、腹が立たないのか」と尋ねたという。妻には「平和のために断固闘うには、この地を訪れるべきだ」と書いたはがきを送った。夜行列車で抜け出したという話もあるが、県の記録では飛行機で訪れている。
出典・参考資料